「これが世界初の深海冷凍ミカンだ!」
力強さにあふれたSNSの投稿が目にとまった。シャリシャリと音がしそうな果実の写真が添えられていて、口の中で唾液がじわっと分泌されたのが分かる。ところで、深海冷凍ミカンとは一体なんなのだろう。投稿者である海ゴリラさん本人に聞きに行くことにした。
意外にも0度を下回らない深海
道中も深海冷凍ミカンのことを考えていた。写真のシャリシャリとしたようすと投稿文からすると、それは深海で凍らせたミカンなのだろう。しかし、もっぱら冷たいと評判の深海の水温は水深1,000メートルで2〜4度、それ以上の深い場所でも1.5度で安定しているという。なにかしらを凍らせるには、心もとない。
素人には思いもよらない何かが、きっとあるのだろうと、それ以上は考えることをやめた。そしてたどり着いたのは、神奈川県にあるJAMSTEC横須賀本部。門番から入手したゲストパスで開いた扉の先に、世界初の深海冷凍ミカンを生み出したその人はいた。
パーテーションで区切られた一角、両側に本がずらっと並ぶ川口さんの居室。
その人とは、JAMSTEC地球環境部門の研究員である川口慎介さん。北海道大学に在学中からJAMSTECに縁があり、海洋研究に取り組むこと20余年。航海のおもしろさにすっかり魅せられ、日々、海と向き合う川口さんに率直に聞いた。
夢の深海冷凍装置、DSF-α
——
深海冷凍ミカンって、なんですか?
川口
冷凍と言えばミカンじゃないですか。
——
冷凍ミカンをめぐっては時に争いが起きるほど、私たちを惹きつけるものですからね。それはそうなんですが、深海と冷凍ミカンにどういった関係があるのでしょうか。
川口
ミカンは、深海で冷凍環境をつくるっていう研究のデモンストレーションです。投稿の写真は水深1,000メートルくらいで3回実験した、2回目のミカンですね。
——
重要なのはミカンじゃなくて、深海で冷凍環境をつくることだったんですね。どんな研究なんですか?
川口
「サンプルを深海で冷凍して持って帰れたらいいよね」というニーズが身近にあって。深海の物って、引き揚げる時に形が変わっちゃう問題があるじゃないですか。
——
生き物だと、目玉や内臓が飛び出すっていうやつですね。海面に近づくにつれて水圧は下がるのに、内圧はそのままだから内側から押し出されちゃうんですよね。
川口
そう。それと、生物サンプルは遺伝子解析ができるように、陸では冷凍保管するのが基本だから、「じゃあ深海で冷凍できる仕組みを作ったら面白いじゃん」って。
——
引き揚げる前に、そのままの形で冷凍できたら状態のいいサンプルが手に入るんですね。
川口
そのアイデアを考えた時に、僕が北海道大学で卒論生だった時に知ったペルチェ素子がうまくハマりそうだなと思って。
——
ペルチェ素子。はじめて聞きました。文系のわたしにも理解できるように、どういうものか教えてください。
川口
簡単に言うと温度差を作る装置です。どっちかの面の温度を外から決めてやると、その相対差でもう片方の温度が決まる。
——
マッドサイエンティストの実験室に置いてありそうなゴツい画が浮かびましたが、大がかりな装置なんですか?
川口
大きさはいろいろあるけど、一般的には名刺サイズの板状で、厚みも携帯電話くらい。
——
小さいんですね!
川口
半導体の一種で、電気を通すと片方の面が冷えて、片方の面が熱くなる。今回作ったのは70度差を作る装置で、熱い面を深海の水で冷やし続けると4度くらいに保たれるから、4度ー70度でもう片面はマイナス60度超になるはず、というのがコンセプト。
——
なるほど!4度では、さすがに物は凍らないんじゃないかと思ってたんですが、マイナス60度なら凍りますね。
川口
4度から、さらに温度差を作るっていうのがミソです。けど、ペルチェ素子は排熱するのが大変。水道水をジャブジャブ流したり、風を当てて熱を奪ったりするんだけど、みんなそこで苦労してるんです。でも深海なら、ポンプを動かせば冷たい水を無限に供給できる。
——
みんなが苦労していることが、深海なら難なくできる、と。アイデアの組み合わせがすごい。
川口
常日頃から、いろいろ考えているのが、カチッとハマりました。
本棚には、プライベートでスポーツコーチングに取り組んでいる川口さんらしいタイトルが並ぶ。
——
20年前に知ったペルチェ素子と、深海環境が結びついて新たな研究テーマに。いつ頃から取り組まれているんでしょうか。
川口
2017年に所内のコンペ「JAMSTECイノベーションアウォード」に出したら採択されて予算がついたので、そこから着手して「DSF-α」っていう冷凍装置の試作機をつくりました。Deep See FreezerでDSFです。
これが世界初の深海冷凍装置だ!
——
Deep See Freezer……深海冷凍装置。もちろん水圧に耐えられる加工が。
川口
水深2,000メートルに相当する耐圧20MPa、安全係数3で、理論上は水深6,000メートルに耐えられるよう設計していて、表面が錆びないように特殊な加工もしてあります。
地球では起こらない現象を人間がやる
——
これ、刺せるようになってるんですね。
川口
海底に刺して堆積物をポコっとくり抜いて採る筒を使ったんです。そのくり抜いたサンプルを冷凍したら、そのまま持って帰れるっていうコンセプトで作ったから、こういう形状をしてます。
——
それでミカンが突き刺さってたんですね。世界初の深海冷凍ミカン、味はどうだったんでしょうか。
川口
しょっぱかった。笑
——
突き刺さってますしね。
川口
そこから海水が入ったんでしょうね、ただ海水をまぶしたミカンでした。
実際にミカンが刺さっていたところ。嗅いでみたけど、さすがに痕跡は感じなかった。
——
味はともかく、深い海の底で物が凍っていくって、ロマンがありますね。
川口
地球史上初ですからね。「凍った!凍った!!」っていう感動がありました。
——
地球史上……?
川口
深海っていう環境には、例えばマグマがせり上がってきて熱くなるプロセスは天然に起こり得るんだけど、冷たくするプロセスはないんですよ。
——
言われてみれば。物理的に地球のコアに近い深海の水が、なんで冷たいんだろう。
川口
深海の水が冷たいのは、南極とか北極の表層で冷たくなった水が潜り込んでいるからです。ぐーんと沈んだ冷たい水が、太陽の光が届かない深海では温められないだけで、そこで冷えてるわけじゃないんです。
——
温められないだけで、そこで冷えてるわけじゃない。あぁ、そうか。
川口
だから深海では、放っておいても絶対に氷はできないんです。なぜなら、それ以上冷えないから。放っておいても地球では起こらない現象を人間がやれば、それは地球史上初めて。
——
地球に起こせない現象を起こす。ゾクゾクしてきました。
川口
「地球史上初めてじゃん」って思うと、面白い。誰もやってないことをやるから、面白いんです。
——
なんだか未来がバーっと拓いたような気持ちになりました。身近なニーズに対しては、今後なにか展開はありそうですか?
川口
難点があって、凍るまでに3時間くらいかかるんです。その間ほかの調査ができないから、実用化するにはもうちょっと工夫が要るってことで、ひと区切り。
今は、海中の音から人間の活動が自然環境に与える影響を分析するサウンドスケープ研究に取り組んでいる。
——
もっともっと研究が進めば、深海生物を冷凍で仮死状態にして、水槽に戻すと生き返るなんてことが実現するかも……?なんて妄想すると、マニアとしても夢が広がります。
川口
この技術をどう使うかは、いろんな人に考えてもらえたら。深海冷凍装置自体は作れることが分かったし、僕はアイデアを結びつけるのが得意なので、ニーズがあればいつでも再開できます。
——
ところで、深海冷凍ミカンのことは論文には入れなかったとSNSの投稿にありましたが、これは何か理由があるんですか?
川口
共同研究者のチェン君(※JAMSTEC超先鋭研究開発部門のChong Chen氏)に「冷凍ミカンってジャパニーズカルチャーだから、誰にも分からないよ」って言われて。
——
えっ!日本以外にはないんですか、冷凍ミカン。
川口
剥いた身を凍らせたのはあるみたいですけど、丸ごとは日本の伝統品みたいですね。
——
カチコチの冷凍ミカンで頭をなぐられた気持ちです……。
「深海で人類ができることの限界を拡張したい」と研究に取り組む川口さんが、面白い!やってみよう!とチャレンジして誕生したのが、深海冷凍ミカンだった。
日本中で最も深海をよく知り、向き合っているJAMSTECの研究者の熱意が、深海冷凍装置のずしりとした重みに詰まっている気がした。
掲載論文https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fmars.2023.1179818/full
Kawagucci,S.,Matsui,Y.,Nomaki,H. and Chen,C(2023)Deep-sea freezer,Frontiers in Marine Science,10,doi:10.3389/fmars.2023.1179818.
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