「食べないの〜?」
兵庫県でのダイオウイカ解剖イベントで、ひとりの男の子がそう声をあげた。この巨大なイカを食べてみたい——子どもならずとも、誰もがそう思うだろう。わたしも食べたい。
ところが、「ダイオウイカはアンモニア臭くて不味い」と一部で知られている。どうにか美味しく食べる方法はないのだろうか?そんな問いを抱き、理系料理でダイオウイカを美味しい逸品にしようと若き研究者たちが立ち上がった。カギとなったのは、加熱で起きる反応の応用。
NH4Cl + NaHCO3 → CO2 + H2O + NH3 + NaCl
あぁ!待って!化学式を見て「うえぇ」となったかもしれないけど、ページを閉じないで。徹底して理数系科目を避けてきた文系の極み筆者にも理解できるくらい易しく書いたつもりなので、どうかついてきてほしい。
宙の研究者が魅了された深い海の世界
ダイオウイカを美味しく食べようと計画したのは、総合研究大学院大学の博士課程に所属する中澤淳一郎さん。JAXA宇宙科学研究所を拠点に、宇宙探査機に搭載して地球外生命の探査などを実現するための質量分析計を研究・開発している。
果てしない宙をフィールドにする研究者が、深い海に棲む生き物を料理しようとは、いったいどんな縁があったのだろう。
「高校1年生の時、深海で生きているダイオウイカを初めて撮影したNHKスペシャルの映像に魅了されました。サーチライトに照らされ、黄金色に輝く姿が強く印象に残っています。それ以降、イカ全般に興味を持ちました」
NHKが11年ほど前に、ダイオウイカを追い続ける窪寺恒己博士とともに深海に潜って捉えた、あの有名な映像だ。イカに興味をもった中澤さんは、2021年のダイオウイカ漂着のニュースに登場した、島根大学の広橋教貴教授の名前を見逃さなかった。
「連絡先を調べてメールしました。どういう形でも構わないのでダイオウイカに関連する研究に取り組みたい!と伝えたところ、お忙しい中オンラインミーティングの時間をとってくださり、以来、交流を続けています」
中澤さんは、未知の生物を宙と海の両方で追い求めているらしい。
NH4Cl + NaHCO3→CO2 + H2O + NH3 + NaCl……その心は
ダイオウイカ料理に挑んだのは、解剖イベントの翌日。広橋研究室に所属する、大学院生の松山さんとともに実行した。筆者が広橋先生を訪ねて行ったあのラボで、彼らはダイオウイカの肉をすりつぶし、焼き、そして食べたのだ。
作戦は、解剖を手伝うと決まってから、1週間かけて独自で練っていた。ダイオウイカの不味さは塩化アンモニウム由来。塩化アンモニウムをいかに取り除くか、が肝となる。そこで白羽の矢が立ったのが、「NH4Cl + NaHCO3 → CO2 + H2O + NH3 + NaCl」だった。文系の極み筆者には、それぞれの化学式がなにを指しているのか、さっぱり思い出せない。何のためらいもなく検索した成果を同士たちに共有したい。
水兵リーベ僕の船〜と覚えた大昔の記憶は、検索の圧倒的スピードに敗北した。
つまりこの作戦は、お菓子作りなどで重曹を加えると、二酸化炭素が発生して膨張する科学的膨張作用を応用したもの。ダイオウイカを重曹で処理することで、塩化アンモニウムと炭酸水素ナトリウムが化学反応を起こし、二酸化炭素、水、アンモニア、塩化ナトリウムへと分解する。二酸化炭素とアンモニアは常温で気体で、かつアンモニアは水に溶けやすい。これらの性質を利用して、不味さのもとを断つというロジックだ。
はたして作戦どおりにいったのか。中澤さんによる振り返りを交えてお届けする、ダイオウイカ理系クッキングのお時間です。
ダイオウイカは三枚におろせる
ラボには、手動式みじん切り器や調理用ハンマー、乳鉢、カセットコンロなどが用意された。料理に使ったのは、ダイオウイカの足の一部で、直径10センチ、長さ20センチほど。
「まず皮を剥いでいこうとしたのですが、めちゃくちゃ分厚い。包丁で切れ込みを入れると、あとはつるつる手で剥けました」
フグ皮のように、ダイオウイカ皮のおろしポン酢あえとかできそう。
ただ、吸盤のある部分は皮が剥げなかったので、そこは包丁で落としていく。身、皮、吸盤。ダイオウイカの三枚おろしが誕生した。人類よ、これがダイオウイカの下ごしらえだ。
見事な三枚おろし。ダイオウイカのこんな姿、見たことある?
白く輝くダイオウイカのゲソ。まずはそのまま食べる刺身用に切り分け、残りは細かく刻む、重曹を加える、さらにすりつぶすなど、工程を経るごとに6種類に分けられた。すり身は片栗粉を混ぜて、つみれ汁とちくわにする手はずだ。
すり鉢ではなく乳鉢を使うところが研究者っぽい。
まずは素材の味を楽しむ刺身。そのお味は…?
「アンモニア臭はあまりなく、無味で“水っぽいイカ”という感じでしたが、やはり後からえぐみが出てきました。口の奥に不快感が広がっていくような感覚です」
やはり不味いのだ。不快感を想像したら、喉の奥がぎゅっと閉じたような気がした。
青白く輝く身はとても美味しそうに見えるが、「不快感を濃縮した悪魔の身だった」と中澤さんは話す。
鍋に残るはアンモニア臭い片栗粉の塊
ダイオウイカは熱を加えなければ、とても食べられたものではなさそうだ。続いて、片栗粉を混ぜたすり身をだんご状に丸め、つみれ汁作りに取りかかる。身近にあるタラなどのすり身よりも、圧倒的な量の片栗粉を混ぜなければ粘りが出ない。今思えば、2人はこの時かすかな違和感を覚えていたという。
なかなかまとまらないダイオウイカのすり身。巨大なヤンヤンつけボーにも見える。
すり身を鍋に投入すると、目論見どおり塩化アンモニウムの分解反応が起きた。
「鍋からは、小動物のトイレの臭いを濃縮した針で鼻の奥を突き指されたような感覚になる、強烈な悪臭が漂ってきました」
強烈な臭いを放つ人間用のトイレで粘膜が痛いと感じた経験はあるが、それをさらに凝縮した針で突かれるとは…。もはや臭いの暴力である。絶対に嗅ぎたくない。ダイオウイカのつみれ汁だけは、生涯作らないでおこう。
画面から臭ってくるような気がする不思議。
ただ、強烈な臭いを放つということは、ダイオウイカの身に含まれていた塩化アンモニウムが気化している証拠。その点はよかったが、問題は「水」にあった。
「ダイオウイカの身は、おそらく体積のほとんどが水。しかもアンモニアが生成される時にさらに水が発生してしまうため、すり身を鍋に入れると瞬く間に水分が鍋の中に拡散し、小さくなってしまう。鍋の中に残ったのは、強いアンモニア臭を放つ片栗粉の塊でしかありませんでした」
ついさっきまでつみれだったものが白くモヤっとしたものになって浮かぶ光景が悲しい。
身が水っぽすぎて、片栗粉をたくさん入れてもなかなか固まらない。ようやく固めたものを茹でれば水に戻り、鍋からはトイレ臭が立ちのぼるばかり。結果、半透明のちいさな小麦粉玉だけが残るという事態になった。これはちくわも同じ結果だった。
ちくわというには、見るからに粉っぽい。こういう味噌汁の具、ある。
わずかに見えた希望の光
ダイオウイカを美味しく食べることは不可能なのだろうか。絶望感におそわれるが、ここで諦めるような彼らではない。手元にはまだ、皮と吸盤があった。
そこに「魚の匂い消しに、一度焼いた後に茹でるとよいと聞いたことがある」と松山さん。焼くことで塩化アンモニウムと重曹の反応によって生成されたアンモニアと水を飛ばし、さらに茹でることで身に残った塩分とアンモニアを取り除くことが期待できるひと手間。アンモニアが水によく溶ける性質を利用した、理にかなった方法に思える。
ぷりぷりしていて美味しそうに見える吸盤串だが…?
皮と吸盤に串を打ち、重曹と塩・コショウをすり込んで焼く。この時点では噛めば噛むほど海水を煮詰めたような味とアンモニア臭が口全体に広がるシロモノだったが、臭み消しを強化すべく生姜と一緒に茹でたところ、希望が見えた。
「えぐみが抜け、アンモニアの匂いもほとんどしなくなりました!味と食感はホッケの塩焼きに近い。ただ、淡白で脂の濃厚な旨みがない、といった感じでした。それでも、これまでとは違って全然食べられるものでした」
しかしあくまでも、この挑戦は「ダイオウイカを美味しく食べたい」だ。足りなかった脂の旨みを補えば、美味しい逸品になるのではないか。そうして彼らは、オリーブオイルをたっぷり使う料理、アヒージョにたどり着いた。
ダイオウイカvs.ニンゲン。結果は…?
ゲソはすべて使ってしまったため、広橋先生が持ち帰っていた胃の周辺の肉を頂戴した。ここまでに得た知見をすべて投入し、ダイオウイカホルモンのアヒージョに賭けた。
ホルモン感あふれるダイオウイカの胃の周辺肉。大きい。
まずは重曹をすり込み、焼く。ここで塩化アンモニウムと重曹が反応し、アンモニアと水が生成される。そのため、今回もすさまじい量の水を出して縮んでいくが、怯まず茹でる。鍋の水に、身に残ったアンモニアを含む水分が溶けたはずである。そして、彩りよくブロッコリー、トマトと一緒に、ダイオウイカのホルモンをオリーブオイルに漬けて加熱した。ダイオウイカvs.ニンゲン。結果は…?
ついに完成した逸品、ダイオウイカのホルモンアヒージョ。
「臭みもえぐみもなく、非常に美味でした!」
臭くて不味いと言われていたダイオウイカが、ついに美味しい逸品へと昇華した。巨大なダイオウ様を食べちゃえる時代が到来したのだ。
「ウニやフグを初めて食べた人など、人間の食に対する情熱は狂気的だとかねがね思っていました。しかし気が付けば、自分もそちら側へ一歩踏み出していたのかもしれません。ただそこには、ダイオウイカを美味しく食べたいというワガママがあっただけだと感じています」
臭くて不味いと囁かれていたものを、理系料理で美味しく変えたふたり。食べものとして見られていなかったダイオウイカを食材として成立させる、下処理の方法をひとつ見出したといえるだろう。化学ができるって、強い。
水分の扱いなど、これからもっと料理としての研究が進めば、ダイオウイカパスタとか、ダイオウイカピッツァなんてものをいつか食べられるようになるかもしれない。そんな時がきたら、「食べないの〜?」と声を上げた男の子の元にも、ダイオウイカ料理が届くといいなと思う。
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